吉本淳一

Movie

Summary

1924年(大正13年)、現在の山口県光市で7人兄弟の長男として生まれた。幼い頃から体が弱く小学校も休みがち。青白くてひょろりとした姿はまわりから「電信棒」と呼ばれる程だった。吉本さんが育った熊毛群岩田村はかつて高杉晋作率いる奇兵隊の練兵場があった場所。小さな胸の中には絶えず「陸軍への強い憧れ」があったという。心身を鍛えるため真冬でも毎朝井戸端に行って水を被った。中学2年になり士官を養成する陸軍幼年学校を受験。しかし結果は不合格。試験官は「軍人になる資格はない。山へ行って体を鍛えろ」と吉本青年に言い放った。
 それから3年。時は日米開戦の翌年、昭和16年11月。吉本さんは海軍兵学校に合格。「いよいよ敵国アメリカを撃つ」という思いを胸に江田島での寄宿生活をスタートさせた。目指すは零戦のパイロット。兵学校での教育は驚きの連続だった。中学では「敵性英語」だと言われほとんど習わなかった英語教育が徹底された。英語は国際用語として世界に展開するためのコミュニケーションツールとして必要だというのだ。高度な数学や科学、そして物理。原子論から量子論まで毎日8時間の教育プログラムが用意されていた。そして、霞ヶ浦航空隊に入隊。「軍国主義というより、逆にリベラルだった」という兵学校での生活。戦況が悪化するにつれて吉永さんを取り巻く環境も大きく変わり始める。霞ヶ浦航空隊に派遣されていた吉永さんは敵機襲来が激しくなり訓練継続が困難として、北海道の第一千歳航空基地に移動。1945年(昭和20年)6月、特攻隊に。入隊の可否を聞かれた際に「熱望」と記入し覚悟を決めた吉永さん。配属されたのは、当時帝国陸軍と海軍が初めて共同で開発を進めていた新型戦闘機「秋水(しゅうすい)」隊。ナチスドイツから潜水艦で運んだ設計図を元に設計されたロケット型戦闘機だ。特攻隊員であり、新型戦闘機の開発計画に関わった貴重な証言をここに記録する。
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