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Summary

大正14年7月30日藤澤一雄さんは父親の仕事の都合により
アメリカ カリフォルニア州サンタバーバラで生まれた。
幼稚園までをアメリカで過ごした後、「日本人には日本で教育を受けさせる」という方針の下
母親と共に日本に渡った。

日本では神谷町周辺に住み、巴尋常高等小学校を卒業した後
昭和13年に早稲田中学校に入学。
その在学中に焼夷弾での爆撃を受け、後輩が焼かれて亡くなるのを目の前で見るなど
戦争を身近に感じながら少年時代を過ごしたようだ。

当時は男子が19歳になると赤紙(召集令状)が届き
ほとんどが強制的に陸軍に配属されたというが
藤澤さんは、ゲートルを履いて長い距離を行軍するのが嫌で、陸軍には入りたくないと思っていた。
しかし、飛行機への憧れがあり、空で機銃などを使用して敵と戦いたいという気持ちがあったため
赤紙が来る前に航空隊に志願したそうだ。

そして藤澤さんは三重航空隊に予備生徒として入隊。
そこで行われた訓練は、実際の機体ではなく、簡易的なグライダーを使用したものだけだったらしい。
グライダーを太いゴムロープのようなものでパチンコのように弾き出す。
そうするとグライダーが5〜10m程の高さまで飛び上がり、着陸までの間に
直進や左右の旋回を数回行う程度の訓練だったという。
というのも、藤澤さんらは実際の機体で訓練する必要がなかったのだ。

「我々は航空隊を志願して、飛行機乗りを志願したんですけども、
いつの間にかそれが、特攻兵器で、桜花っていうね」

藤澤さんが受けたのは、桜花(特攻兵器)の訓練だったのだ。
親機から切り離され、敵機に体当たりするのが目的であるため
戦闘技術は必要ない。飛行機の操縦さえできればよかったのだ。

百死に一生なしと言われていた特攻。

しかし初めて桜花に乗るということを耳にしたとき、藤澤さんは
桜花で戦えるということに爽快感を感じたのだという。
教官も、鼓舞する目的で優秀な者は桜花に乗れるのだということを言っていたのだ。

このような環境の中、死んでも国を守りたいたいと覚悟を決めていた藤澤さんだったが
8月15日、出撃することはないまま、玉音放送を聞くことになる。
藤澤一雄
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