渡邉五郎三郎

Movie

Summary

渡邉さんの幼少期。
それは、大正から昭和初期にかけてー。
               
「あの頃、アジアはいわゆる西洋に占領され、
その中で日本とタイがまだ残ってましたからね。
あとアフリカは全部白色人種の植民地になってました」
     
「だからそのころはね、東亜解放という
 つまりそういう植民地を全部なくすと。
 なにしろ、太平洋の島々から全部白人のものですから、
 フィリピンなんかもアメリカが占領しているしね。
 だからそれを解放するというのは、これは中学、その頃からの
 我々の大きな目標だったですね」
   
こう話す渡邉さんは、
「日本を守らなければならない」と
自ら兵役に志願し、歩兵78連隊に入隊。
                            
そして、ついに昭和16年22歳当時
真珠湾攻撃。米英との戦争に突入してしまう。
「ついにやったか」と、死ぬ覚悟で
任務についていたという。
                               
このとき、日ソ不可侵条約は締結されていたが、
朝鮮京畿道龍山(現・大韓民国京畿道)に設置された
歩兵78連隊には、北からの脅威、
つまりソ連の侵攻に備えるという目的が課せられていた。
               
昭和17年6月のミッドウエー海戦を契機に
戦局は悪化。
      
昭和18年。
歩兵78連隊に南方の島々を死守するために
パプアニューギニアへの動員命令がくだる。
                
しかし、渡邉さんにこのとき違う運命の道が訪れます。
    
予備士官学校時代、成績優秀だった渡邉さんに、
「豊橋第一陸軍予備士官学校」で教官を務めるよう命令がくだされ、
渡邉さん一人パプアニューギニアいきから外されたのです。
              
これが運命の分かれ道でした。
パプアニューギニアにいった連隊5000名のうち、
生還できたのは200名程度。
      
多くの同期の仲間も戦死。          
       
この時の無念さは未だに心を苦しめているそうです。 
             
そして、その戦友への思いや、
生きながらえた命を、戦後の復興のために活かしたいと、
         
武力に頼らない民間外交で国際平和を実現しようと、
「海外青年協力隊」の立ち上げにも力を注ぐなど
活動をされてきました。
 
  
【下・写真】
①陸軍時代
②昭和19年豊橋第一陸軍予備士官学校入校式
③昭和13年熱河省(現・河北省)
④昭和19年婚礼
⑤昭和26年末次一郎氏
渡邉五郎三郎
この記事が気に入ったら「いいね!」しよう
渡邉五郎三郎