與田純次

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Summary

大正14年に生まれた與田さんの幼少期は、
  
日清・日露戦争に勝利した日本がアジアへ進出。
満州国建国など、領土を拡大し勢いに乗っている時だった。
               
当時、欧米列強の植民地となっていないアジアの国はタイと日本の二国。
多くの子どもや青年は、軍隊入りを志願しアジアを解放しようと意気込んでいた。
    
様々な意見や論評があるが、複数の証言者のお話しから総合すると、
そういう一面があったことは間違いない。
   
そして、與田さんも例にもれず少年時代から陸軍に入ることを
義務のように考えていたという。
     
このときの、おもしろいインタビューのシーンがある。

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Q:陸軍か海軍、どちらに入りたいとか、そんな思いはあったのですか?
 
「ないですな。海軍は考えたことはなかったですね。
 なんでだろ…そうだ乗り物酔いだ、船に弱いんだ私は」
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「戦争」に、人間臭い一面が垣間見えた瞬間だった。       
上からの命令でも、強制でもなく、船に弱いから陸軍を目指すなんて
いかに人生に「戦争」が入り込み、かつ受け入れていたか窺い知れる。
   
           
さらに、こんな質問…
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Q:昭和16年の真珠湾攻撃の一報が流れたあとの、まわりの大人の反応は?

「提灯つけて、夜も喜びに沸いてました。
 なんていうんでしょうね、勝ち戦しか知りませんから」
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これも当時の日本人の気持ちが伝わってくる証言だと思う。

  
今風に言えば、イケイケどんどんの雰囲気の中、
19歳の與田さんは、満州独立工兵隊に入隊。
   
ソ連・満州国境にて陣地構築の任務にあたる。  
北の脅威に備えていたのだ。
            
他の証言者からは、こののち日ソ不可侵条約を破棄しソ連が攻め込んでくることに対し、
「軍部はまさか、ソ連が攻めてくるとは夢にも思っていなかっただろう」
という話もあったが、程度に差はあれど、
参謀本部がソ連を警戒していたことは間違いないようだ。
          
   
そして、昭和20年8月9日未明。
国境を破りソ連軍が満州に侵攻。
    
事前に情報を得ていた満州独立工兵隊は、
高い草が生える平地に、タコツボと呼ばれる1m四方深さ120センチほどの穴を掘り、
   
穴一つに一人。
戦車を攻撃するための爆弾と、自決用の手榴弾。三八式歩兵銃と実弾5発。
一升のお酒も持って身を潜め、ソ連軍の戦車がくるのを待ち受けたという。
 
酒は、心を不安から解消し勢いをつけるためのものである。
      
攻撃の方法は、戦車がきたらその下に潜り込み爆弾を爆発させる。
当然、自分も死ぬ。特攻である。
  
幸いにして、與田さんが潜んでいたタコツボの近くを
ソ連軍の戦車は通らなかった。
  
    
遠くのタコツボからは、爆発音が聞こえ何人かの戦友が戦死した。
しかし、ソ連軍の戦車はほとんど無傷だったという。
日本軍が持っていた爆弾では威力が足りなかったのだ。
  
その後、30人ぐらいとなった部隊で山に入り朝鮮半島を南へ敗走する。
    
山の中に、川は流れ水は確保できるが、食料がない。

動物は少なく、よくみかけるリスは
捕まえることが容易ではなかったという。
  
食べられる生き物といえば、
  
カタツムリ。
  
朝昼晩10個ずつ食べ、10日間生きながらえることができた。
  
このとき、既に8月末。
  
実は與田さんらは、玉音放送が流れ
日本が終戦を迎えたことを知らないでいた。
   
死のロードを乗り越えてたどりついた先で目にしたのは、
武装解除された友軍。
   
想像だにしない事態にとまどうのもつかの間、
すぐにソ連軍の捕虜となり、シベリアへ抑留された。
    

かなり要約したが、ここまでもとても興味深いお話をされている。
そして、過酷なシベリア抑留のお話。
  
ぜひ、インタビュー証言のVTRをご覧になっていただきたい。
    

先入観は横に置き
「当時」を知ることの楽しさから始めよう

安彦和弘


写真3段目
シベリア抑留中に、数少ない娯楽になればと
白樺の木の川に絵を描き作ったトランプ

写真4段目
戦後の與田さん(車内)
與田純次
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與田純次