1 00:00:00

昭和9年海軍兵学校入学
「誰かが国を護らなければ」

2 00:09:09

真珠湾攻撃 前夜
「戦争したら負けると思ってました」

3 00:27:08

漂流するイギリス兵422名を救助
「みんな喜んで船に上がってきましたよ」

4 00:35:54

ミッドウエー海戦
「一般の人にも機密情報が筒抜け。これでは勝てません」

5 00:55:08

駆逐艦嵐で出撃
「目の前で空母赤城がやられてるんです」

6 01:00:06

大破した空母赤城を自沈
「最後に私の魚雷で沈めたんだ…」

7 01:07:59

補給物資の輸送作戦
「輸送団のうち必ず1隻は沈められた」

8 01:29:33

海兵学校教官に任官
「戦場で戦死するつもりでおったのに…」

9 01:41:31

玉音放送
「終戦したのに特攻で突っ込むと宇垣中将が出ていったんです」

10 01:56:51

戦後の日本について
「アメリカの妾みたいな生活はやめたいですね」

11 02:06:26

ミッドウエー海戦の作戦について
「作戦ミスです。兵装転換する必要はなかった」

12 02:12:34

ミッドウエー海戦に勝利していたら
「1年ぐらいアメリカは来なかったでしょうね」

大正5年、福岡県に生まれ佐賀県で育った。「侍か軍人でなければ人でない」と言われた佐賀での暮らし。海が好きで、軍隊に憧れていたという少年は海軍兵学校を目指す。人々が自由を謳歌し文化を育んだ大正デモクラシー。「あれで空気が緩んだ」と谷川青年は時代の空気に厳しい目を向ける。アメリカを仮想敵国とした兵学校での厳しい訓練に耐え、21歳で卒業。分隊長として駆逐艦に乗員した3年後の昭和16年、日米開戦を迎え出撃。ミッドウェー海戦では水雷長として、米国艦隊との激しい戦闘の渦中に。空からの波状爆撃で炎上し自走できなくなった空母「赤城」を沈めたのは、谷川さんが発射した魚雷だ。轟沈する赤城に取り残された1人の水兵の影が見えたという。「30年は夢に出てきた」という。日米開戦前夜から終戦までを一貫して海軍兵士として闘い、見つめてきた谷川さんの証言は貴重だ。ミッドウェーでの作戦は事前に漏れていたーー。谷川さんが目の当たりにした衝撃的な大本営の舞台裏も。

1916年(大正5年)
9月4日
 
福岡に男4人女3人の7人兄弟の長男として生まれる。「軍人にあらずば人にあらず」という気質の土地柄で育つ
1934年(昭和9年)
4月
17歳
海軍兵学校入学(第65期)
1938年(昭和13年)
9月1日
21歳
海軍兵学校卒業。途中病気療養のため1年留年し66期生として卒業。卒業後、重巡「三隈」「筑摩」戦艦「陸奥」に乗り組み遠洋航海を行い、駆逐艦「雷」航海長兼分隊長に着任。
1941年(昭和16年)
12月8日
25歳
真珠湾攻撃。このとき谷川さんは、同日に行われた香港攻略戦に駆逐艦「雷」の水雷長として参加する。
1942年(昭和17年)
2月26日〜28日
 
スラバヤ沖海戦。撃沈され漂流している英海軍の巡洋艦「エグゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗員422人を救助。          
 
5月
 
駆逐艦「嵐」分隊長兼水雷長に着任
 
6月5日
 
ミッドウエー海戦。駆逐艦「嵐」は空母赤城の直衛として最前線で戦闘を行う。
 
同日    午前10時頃
 
空母「赤城」、米軍急降下爆撃機の爆弾2発を被弾し大破。
 
6月6日  午前0時頃
 
山本五十六長官より、航行不能の空母「赤城」の自沈命令が下り、水雷長だった谷川清澄さんが「赤城」に向け魚雷を発射。「赤城」を沈没させる。
 
7月30日
 
ソロモン諸島方面への輸送作戦に従事
1943年(昭和18年)
4月
26歳
海軍兵学校に水雷の教官として任官。
1945年(昭和20年)
5月1日
28歳
少佐に昇進
 
8月15日
 
玉音放送。同じに基地に所属していた宇垣纏中将らが終戦をむかえた後に特攻出撃するのを目の当たりにする
 
終戦後
29歳
復員輸送に従事
1952年(昭和27年)
 
35歳
海上保安庁海上警備隊地方隊に配属
1953年(昭和28年)
 
36歳
海上自衛隊佐世保地方総監部設置 佐世保隊に配属
1968年(昭和43年)
 
51歳
統合幕僚会議事務局第1幕僚室長
1969年(昭和44年)
3月
52歳
統合幕僚会議事務局第2幕僚室長
1969年(昭和44年)
11月
53歳
練習艦隊司令官
1970年(昭和45年)
 
 
海上自衛隊海将
1971年(昭和46年)
 
 
海上自衛隊佐世保地方総監
1973年(昭和48年)
 
54歳
退官

堀潤 Jun Hori

大本営発表によるプロパガンダは私の大学時代からの研究テーマ。谷川さんが海軍の内側にいて、当時のメディアコントロールをどうみていたのかがわかり貴重な証言だと実感した。「ミッドウェーでも負けたのなら負けたと言って、次はこうしようと言えばいい。戦争をするのに嘘を言っては行けない」という証言も印象的だった。間違っていると思ったことは上官であろうと恐れずはっきりと言ってきたという谷川さん。インタビューの終盤、「戦争をするなら勝たなくてはいけない。負け戦の話は本当に悔しい」と拳を握りながら絞り出すように語ったのは、戦場で身体を吹き飛ばされ亡くなった戦友たちや焦土と化した本土で命を失った人々の姿が記憶に刻まれているからだ。国家の防衛とは何かを考えさせられるインタビューだった。

安彦和弘 Kazuhiro Abiko

このプロジェクトを進めていくときにふと、過去を掘り起こす作業は前を向いているのか?と自問自答することがある。しかしいつも取材を進めていくとその疑問は払拭される。未来に伝えたい言葉に出会えるからだ。まさに谷川さんのときもそうだった。谷川さんは「お国のために戦うことは当然だ」と話した。そのお国とは何を指すのか質問すると、そんな質問を受けたのは初めてだったのだろう、しばらく上をみつめそして、「ぼんやりと感じるのは国っていうのはやっぱり日本のずっとつないだ、連綿とつないだ日本の歴史。そこに生まれた人間。それが国のためですよ。」と話した。そこには完全に「私」を滅して「公」の心を持った谷川さんがいた。もちろん戦争は大否定だが、自分を犠牲にしてでも護る。僕自分も含め、自分だけは損をしたくないと考えがちな現代に伝えたい言葉だと感じた。