尾崎健一さん戦争証言を公開しました。
尾崎さんは昭和3年(1928年)2月8日高知県高知市で生まれた。
家族構成は4人。両親と兄がいた。
家があまり裕福でなかった尾崎少年は旧制中学4年生(15歳)のときに、「学費はタダで通信技術を身に付けられて、なによりお国のために尽くしたい」と東京陸軍少年通信兵学校へ入学を志願。
しかし高知からはるか離れた東京へ送り出すことに両親は猛反対した。
この頃、昭和18年11月は戦況も悪化し、近所の家でも戦死者が出てきていた。
20歳未満の少年に兵役の義務はなく、何も自ら戦場へ向かうことはないのにと、親の立場にすれば相当な心配だったにちがいない。親を説得の末、東京陸軍少年通信兵学校入学。
本来は2年で卒業だが、さらなる戦況の悪化に1年で繰り上げ卒業させられ戦地に送り出された。
向かった先はフィリピン・ルソン島。
尾崎さんの知る限りでは16歳で海外の戦地へ出されたのは最年少だったという。
しかしそこで待っていたのは、アメリカ軍の戦闘機は飛んでいるが日本軍の飛行機は姿形も見えない、ほとんど負け戦の戦場だった。
アメリカ軍の猛攻撃に通信業務を開始してわずか2ヶ月あまりで部隊は崩壊。
生き残った者は敗残兵となりジャングルの奥地へ散り散りに逃げた。
華々しく戦死した者など1割にも満たなかったという。
ほとんどが病気・餓死・現地フィリピン人によるゲリラ攻撃で亡くなった。
靴はすぐにダメになり裸足で逃げながら、食料の雑草を探す毎日が約8ヶ月続いた。
極限状況に同じ日本人同士が殺し合う場面も見た。
食料用に頬や太ももを切り取られた新しい死体も目にしたという。
アメリカ軍が巻いたビラで敗戦を知り投降。捕虜生活を経て復員した。
部隊の9割が亡くなった中、何度も奇跡が起きて日本へ生きて帰ることができたという尾崎さんは、亡くなった戦友たちへの、自分だけ生き残った申し訳ない気持ちが消えることはない。
あそこで何があったのかを伝えることがせめて反戦の教訓にすることがせめともの供養ですと話してくれた。
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