石田アヤさん戦争証言を公開しました。

栃木の農家に生まれたアヤさんは、21歳のとき親のすすめで同郷人と結婚する。

その経緯はまさに急転直下だった。

自分の息子とアヤさんの結婚を強く望んでいた義父が、昭和19年12月31日に脳溢血のため急死。

義父の生前の希望に沿うように3日後の昭和20年1月3日に結婚。

夫となった男性が当時 東京の鉄道会社で勤務していた関係で、アヤさんは挙式後すぐに上京。

現・江東区東陽町のアパートが幸せのすみかとなった。

アヤさん2度目の東京だった。

1度目は観光で来ただけだったので右も左もわからないまま戦火に包まれる東京での暮らしが始まった。

連日のように鳴る空襲警報。

幸いにも住居付近に爆弾が落ちてくることはなかった。

しかし3月10日。東京大空襲に見舞われてしまう。

インタビューでも証言しているが「火が押し寄せてくる」「熱いよう熱いようと言いながら子どもが川を流されていく」。

熱風が吹き荒れ、それから逃れるように川に逃げると、川が熱風の通り道になっており熱でやられてしまう。

さらに3月の川の水は冷たく体力が失われ老人子どもから衰弱し流されてしまうのだ。

そして翌日、トロリーバスの鉄塔も熱で飴のようグニャリと曲がり落ち、建物も全て焼け、一面焼け野原となった東陽町を、死体をまたがないようによけながら東京駅まで歩き。なんとか実家の栃木へ帰ることができたという。

しかし避難して1ヶ月で夫に召集令状が届く。

1人の若い女性が戦争に巻き込まれどんな体験をしたのか。

貴重な証言です。

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