小山明子

Movie

Summary

女優の小山明子さんは、昭和10年(1935)千葉県に生まれ3歳から文京区本郷で育つ。
祖父母と両親、兄が3人。戸外で活発に遊ぶ、お転婆な女の子だった。
     
昭和16年、真珠湾攻撃の頃、母が胃潰瘍の手術で入院。
小学校は母のたっての希望で名門小学校に越境入学するも、あまり勉強の時間はなかった。
その頃の日本は、まだ長閑だったが、“もし敵の飛行機が上空に来たら何分で家に帰れるか”
というような訓練をしていたからだ。
   
昭和18年、小山さんは母の実家である大阪の池田市に、おじを頼って疎開した。
小さい子どもは集団疎開ではなく、縁故疎開だったのだ。
後に父の日記を読むと、“これが娘との今生の別れかもしれない”と万感の思いで見送ったのに
“明子は後ろを振り返りもせず行ってしまった。”と書いてあったの。と小山さんは笑う。
というのも、小山さんは疎開を前に、当時欲しかったバッグをデパートで買ってもらい、すっかり旅行気分。
両親と別れる寂しさや、戦争の辛さなど微塵も感じていなかったのだ。
   
その後、疎開先の大阪では、学校で仲間に入れてもらうために、
ベタベタの関西弁を喋らなければならなかった。
「必死で覚えたのよ。でも、子どもは覚えが速くてね。
役者になってからは、大阪弁の台詞でも役に立ちました」と小山さん。
  
数々のエピソードの合間に「なんだか笑ってしまうような話ばかりで、ごめんなさいね」と
インタビュアーを気遣う小山さんだが、小さな子どもが見た戦争、
戦時下の日常生活のディテールはとても興味深い。
    
しかし、そんな小山さんも、玉音放送を聞いた日のことだけはしっかりと覚えている。
戦争が終わった日の、大人の言動に何を感じ、それをどう受け止めたのか…
子どもの純粋な気持ちが、この日を境にどのように変化していったのかが手に取るように解る。
   
「母も戦争が無ければもっと長生きしたと思うの…」
終戦後すぐに病死した最愛の母の思い出は鮮やかだ。
そして、その母の教えを胸に今を懸命に生きる小山さん。
   
「あと10年もしたら私たちの世代も90歳。
それまで生きてるかどうかなんて誰にもわからないもの。
今戦争の話しをするのは大事なことよね」
  
小山明子
この記事が気に入ったら「いいね!」しよう
小山明子