波多江たま

Movie

Summary

波多江たまさんは、大正3年(1914)青森に生まれた。
現在100歳。

16歳のときに満洲事変、18歳のとき日本が国際連盟脱退、22歳のとき盧溝橋事件、27歳で真珠湾攻撃、30歳のとき玉音放送、敗戦を迎える。

波多江たまさんは、日本が帝国列強の仲間入りを目指しアジアに進出、最後はアメリカを敵に回し敗戦に至るまでを目撃してきた、まさに歴史の証言者である。
 
そして同時に、ある歴史的事件の関係者でもある。

二二六事件。
  
陸軍の青年将校が1400名余りの下士官を率いて起こしたクーデター事件で、首相官邸・警視庁などを襲撃し閣僚らを殺害、永田町一帯を占領した。

その決起将校の中に、波多江たまさんの兄、対馬勝雄陸軍中尉がいたのだ。

たまさんとは6つ違いだった兄・勝雄さんは、陸軍幼年学校から陸軍士官学校に入ったエリート。
13歳で「軍人とは死ぬことなり…」と日記に残すほど愛国心に溢れていた。
   
ところが、満州事変で満洲に出征したころから心境に変化が表れ、軍を辞めることを決意する。その決意は父に翻意され軍に留まるが、そのとき胸の中で膨れ上がった、政治や財閥への不信や不満を抑えられくなる。

勝雄中尉の当時の思いは、「貧乏な兵隊が血を流し拡大した領土で、財閥が金儲けをし、それとつながっている政治家も私腹を肥やしている。貧乏な農村・漁村を救わなければ日本はダメになる」

対馬勝雄中尉自身が、青森の農家の出身で貧乏を目の当たりにしていた。また、満洲で指揮した部下たちが、岩手県の貧乏な農村漁村の出身者で、悲惨な窮状に胸を痛めていたのだ。この頃、勝雄中尉は、給料が入るとそのほとんどを投げ打って、日本から食料を取り寄せ部下に分け与えたり、戦死した部下の遺族には、自分の蓄財から融通できる限りのお金を香典として渡していた。

そんなお兄さんの気持ちを知る波多江たまさんは、後の報道などで、「二二六事件は陸軍内の派閥争い」と言われることに立腹すると言う。少なくとも兄は真剣に国の行く末を案じていたと強く話してくれた。
  
二二六事件の関係者だからこそ話せる証言。

そして、20代後半社会人として迎えた太平洋戦争。

新しい事実を聞くことができると思います。

是非、ご覧ください。


【写真説明(上から)】
対馬勝雄 中尉
対馬勝雄が満洲に出征していた時の満洲①
対馬勝雄が満洲に出征していた時の満洲②
対馬勝雄の祭壇。妻・千代子さんと長男・好彦さん

波多江たま
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