1 00:00:00

2歳の時 家族で大連に移住
日本の租借地 関東州大連では、日本本土より先進的な街だった

2 00:11:17

満州事変
関東軍の嘱託軍人だった父が在郷軍人を訓練

3 00:28:14

日本に帰国
姫路高校から京都大学へ進学するも学徒出陣で海軍へ配属される

4 00:54:03

武山海兵団へ配属
入院・死人も出るほどの過酷な訓練

5 01:07:34

武装駆け足競技
戦後の名野球選手 別当薫も音を上げるほどの辛い競技だった

6 01:16:07

航海学校へ配属
特殊任務(特攻)に志願。特攻兵器「震洋」に配属

7 01:27:42

九州川棚 魚雷訓練所
特攻兵器「回天」に配属された兄と再会

8 01:34:43

天皇陛下という存在とは
抱いていた思いは「俺が死ぬのは天皇のためではない国民のためである」

9 01:47:09

特攻兵器「震洋」艇隊長に任官
特攻訓練をこなす日々

10 01:56:29

乗っていた輸送船が撃沈される
艦橋任務の時間がズレたことにより生還を果たす。わずかな運の差というものを実感する

11 02:12:29

玉音放送
灯火管制が解除され灯りが戻った町をみて終戦を実感

12 02:30:51

太平洋戦争をふり返って
歴史を偽ることだけはやめてほしい

岩井忠熊さんは、昭和18年 京都帝都大学文学部に進学してまもなく、
  
徴兵猶予停止により学徒出陣で海軍へ配属され、

海兵団、航海学校と進み、卒業後 海軍少尉に任官。
   
爆薬を積んだモーターボートで敵船へ体当たりする、
  
特攻兵器「震洋」の艇隊長に任命される。
  
昭和20年3月23日。

石垣島へ配属されるために乗り込んだ輸送船が、
    
アメリカ軍潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。
  
岩井さんは、3時間の漂流の後、救出される。

再び特攻兵器「震洋」の艇隊長に任命され出撃命令を待つも、
 
そのまま終戦を迎える。

   
というのが、太平洋戦争が始まってからの、
  
岩井さんの、とてもざっくりとしたプロフィールだが、
   
幼少時代のお話からとても興味深いのだ。
  
岩井さんが、幼いころ、

元陸軍少将だった父親が退役を期に
  
中華民国における日本の租借地・関東州大連に移住することを決意。
  
父親自身が、日露戦争に出征していたころから馴染みがある土地で、
    
日本に移譲されるまではロシアが街作りを進めていたこと、

大陸ゆえに欧州文化が日本より早く伝わっていたことなどから

「日本本土よりも先進的な暮らしができる」と、
   
彼の地を選んだという。

そして、移住後。
  
満州事変、満州国建国と関東軍が勢力を広げ、
    
事実上、日本が植民地政策をとっていく激動の歴史を目の当たりにし

岩井少年は過ごしてきたのだ。
  
   
満州事変から終戦まで、
  
日本が辿った歴史が見えてくるようなお話。
     
とてもおもしろいので、是非、ご覧いただきたい。
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【写真①】昭和18年6月/京都大学進学した頃
【写真②】昭和19年7月/横須賀にて
【写真③】昭和20年頃/海軍少尉として特攻隊を率いていた頃
【写真④】昭和19年頃/同じく特攻隊に配属された兄と
           本人(向かって左)、兄(向かって右)
 

大正11年(1922)
8月17日
 
熊本生まれ
10人兄弟の10番目
大正13年(1924)
 
1歳ごろ
陸軍少将だった父の退官をきっかけに大連へ家族で移住
昭和6年(1931)
9月18日
9歳
満州事変
当時、父は関東軍の嘱託軍人だった
昭和7年(1932)
3月1日
 
満州国建国
昭和10(1935)
 
12歳
旧制中学校入学
昭和11(1936)
2月26日
13歳
二二六事件
昭和12年(1937)
7月7日
14歳
盧溝橋事件(日中戦争へ発展)
昭和13年(1938)
 
16歳
日本へ帰国
旧制姫路高校へ進学
昭和16年(1941)
12月8日
19歳
真珠湾攻撃
昭和17年(1942)
6月7日
 
ミッドウエー海戦で大敗
昭和18年(1943)
 
21歳
京都帝国大学文学部へ進学
 
12月
 
学徒出陣で横須賀第二海兵団に入団
昭和19年(1944)
2月
 
武山海兵団の学生隊に配属
 
6月
 
海軍航海学校へ配属
 
10月
22歳
特殊任務(特攻兵器)募集に志願/長崎県川棚の臨時魚雷艇訓練所へ特攻配置
 
12月25日
 
海軍少尉に任官
第三九震洋隊の艇隊長に任命
昭和20年(1945)
3月23日
 
石垣島へ輸送中に米潜水艦の魚雷攻撃を受け沈没。3時間の漂流ののち救助され一命をとりとめる。
 
8月15日
 
玉音放送。敗戦

安彦和弘 Kazuhiro Abiko

岩井忠熊さんのお話はとてもわかりやすく学術的であった。
それもそのはずで、近代日本史を専攻された歴史学者であり、立命館大学の名誉教授であられる。
   
岩井さんが近代史を専攻された出発点は、京都大学文学部に進学後すぐに学徒出陣で海軍に配属されたことにある。
海軍の航海学校を卒業後、特攻兵器「震洋」の艇隊長に任命され、輸送船の沈没などののち終戦を迎えるのだが、この間を通じ「俺が死ぬのは誰のため?」という疑問に正面から向き合い答えを出そうと思考を繰り返して来られた。
   
お兄さんの岩井忠正さんも同様の道筋で特攻兵器「回天」と「伏龍」隊に配属された特攻隊員である。
ある日、九州川棚の魚雷訓練所で再会した兄弟で話すと、同じ答えに辿り着いたという。
それは「死ぬのは天皇のためではなく国民のためである」。ここから天皇制とは何か?という問いかけを学問にして来られたのだ。
岩井忠熊さんのお話は、そんな「死」を意識しながら見つめた戦争の総括がとても興味深い。
  
また、8月15日正午に玉音放送が流れ、敗戦が決定した日の夜、
「灯火管制が解かれ、各家に明々とした灯りが戻ったのを見て戦争が終わったことを実感した」と
話されていたことが印象的だった。
 
さらに、「特攻隊はそんなに綺麗なもんじゃない」と、
特攻隊を率いていた下士官として見てきた特攻の裏側のお話もとてもおもしろかった。
 
是非ご覧ください。