花田さんは大正12年、福岡県宗像郡勝浦村字松原で、農家の男3人兄弟の次男坊として生まれた。
畑と水田ばかりの田舎で、菜種の栽培をしていたので春先になると辺り一面が黄色に染まったという。

隣町には日本海海戦当時の捕獲したロシアの軍艦が繋いであり、それを子供の頃から眺めて暮らしていた。

男子が強制的に軍隊に召集されるほどではなかった昭和初期の時代から満州事変を経て、花田さんが中学生時代の頃には男子は強制的に軍隊に行かざるを得ない空気になっていったのだという。
農家の働き手である若い男がどんどん兵隊にとられていき、主婦ばかりとなった農家は大変で、皆悲しんでいたそうだ。

明治教育の最後の頃に学生時代を過ごした花田さんはその時受けた教育というものがほとんど間違いだったと後に放送大学で学んだという。

「みんなそれぞれの経緯でそれぞれの生き方をしているのだと。まともに生きて、まともと言うか、マスを自分の行きたい方向へ行って、行くのは当然の人間の務めであり当たり前のことであって。その強制された教育なんて受ける必要ないと思う。というようにつくづく感じましたね。」

長崎高等商業専門学校に進み経済原理を学んでいた頃に真珠湾攻撃が起きた。そのニュースをラジオで聞いた時アメリカについて詳しく知っていた花田さんは「ついにやってしまったな。どうせ長く続かないだろうな」と同級生と話したそうだ。

昭和18年9月に繰り上げ卒業をして三菱商事に入社したが、召集令状が来て19年6月に針生海兵団へ入団したが自身で希望を出し、9月には15人に1人という倍率の高い試験を合格して海軍経理学校に入学した。

主計の仕事を学ぶ経理学校では、事務処理と食料関係を学んだ。栄養や食料関係のことを主にやり、体を鍛える訓練より勉強に主力を置いた経理学校は羨ましさを込めて花嫁学校だと呼ばれていた。

昭和20年4月末に卒業。配属先の希望を聞かれた時「戦地に行きたくないから、どこどこに行きたい」といった希望をざっくばらんに話せと言われ、希望を言い、そのまま希望通りに戦地に出ることのない千葉県の香取練習後方隊に配属された。

入隊し、主計として人事と金のことを取り扱う事務をやっていた花田さん。
3ヶ月後には今度は三沢航空隊に配属された。

青森・三沢では、日本初のジェット戦闘機『橘花』の実働部隊である第724海軍航空隊(724空)に配属された。
日本海軍は『橘花』を量産配備する予定であり、『橘花』による航空作戦の実施に向けて編成されたのが第七二四海軍航空隊である。
1945年(昭和20年)7月1日、伊東祐満大佐が司令(副長兼務)に任じられる。飛行長は多田篤次少佐。原隊は神ノ池飛行場と定められ、横須賀飛行場で開隊した。
定数は橘花16機・九九式艦上爆撃機24機・練習機12機であった。
7月15日に練成を行う三沢飛行場に移り、艦爆による飛行訓練が始まったのは8月1日からである。
しかし8月15日に玉音放送があり、実際の『橘花』は試験飛行のみで終戦を迎えた。