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Summary

私は八月九日を「原爆忌」といっている。これは私が勝手につけた呼称である。世界の歴史はじまって以来、初めて投下された原子爆弾のキノコ雲をこの目で見た日であるからだ。あの長崎の上空で炸裂した原爆の光ぼうと大地を揺るがす爆発音、天空に現れた巨大なキノコ雲等は七〇年近くなるのに、今でも瞼に焼き付いている。
大村湾を隔てて長崎から直線距離で僅か三〇キロばかりしかない嬉野海軍病院に入院していたときのことだ。
その日の夕方、得体の知れない新型爆弾にやられて衣服と皮膚が溶け合ってだらりと下がり、ずたずたに身を焼かれた被爆者たちが病院に運び込まれ、その悲惨な姿というかすさまじさに驚くと同時に、これがあの昼間の巨大なキノコ雲の下で行われた現実だったのかと寒さを覚えたことだった。その後毎日のように被爆者たちが送られてきていたが、動ける兵隊たちは町内の旅館に分散させられ、そこで「終戦の詔勅」を聞いたのである。
翌一六日、「歩ける者は故郷に帰れ」という命令で、帰国の途についた。汽車といっても、今のような電車ではない。貨物列車である。トンネル内では呼吸もできないほどの煤煙で、しかも立錐の余地もないほどのぎゅうぎゅう詰めで眼だけが光っている。小便はその場にたったままの垂れ流しだ。「てめえ、やりやがったな」という声が飛ぶ。ズボンを通して脚が濡れてくるから分かるのだ。誰も黙ったままである。しかも線路は空襲でやられている所があったりして、嬉野から広島まで三〇時間ばかりかかっていた。
広島の手前の廿日市あたりまで来ると、汽車は動かなくなった。「広島市内の線路は飴のように曲がっているので、ここから歩け」というのである。よく考えてほしい。五〇〇メートル上空の爆発でレールがぐにっやと曲がるその温度はどのくらいだろうか。溶鉱炉の中の温度が一五〇〇~一六〇〇度だが、五〇〇メートル離れて線路が曲がるというのは四~五〇〇〇度くらいだろうか。それに加えて原爆の風速が二〇〇メートルくらいだった。人間が飛ばされて樹木にひっかかって死んでいたのである。満員の電車は焼け焦げて骨組だけが残り、車内には鉄兜をかぶった白骨死体が並んでいたと聞く。
歩いている途中で眼にしたものは、見はるかす彼方まで瓦礫の原で死の世界を思わせるものだった。瓦礫の中から骨の見える焼け焦げた腕や脚が突き出している。また川の中には水ぶくれとなった無数の水死体が浮かんでいた。高熱のため体内の水分が奪われ、水欲しさに川に入り、水を飲んでからこと切れた人たちであろう。それが原爆が投下されて一〇日後の広島の姿である。そんな地獄の惨状を見ながら、憐憫の情のおこらなかったのが不思議だが、そのような状況下に置かれると人間はそうなるものなのだろうか。今から思えば狂気の沙汰と言えようが~。
昭和五九(一九八四)年八月二五日(土)、ベルギー沖のドーバー海峡で、「核物質」を積載していたフランス船「モンルイ号(四二〇〇トン)が西ドイツのカーフェリー(一五〇〇〇トン)と衝突して沈没していたが、私はそんなことは全く知らずに翌日の日曜日、隣家のベルギーの友人と前からの約束だったので、彼の船でオステンド沖に魚釣りに出かけた。沖に出てから友人は、「昨日このあたりで船が衝突して、一隻が沈んだとテレビで放送していたよ」といっていたが、彼もそれ以上のことは知らないらしく釣りに興じたことだった。数匹のサバを成果に家を帰り、「しめさば」にして舌鼓を打ったのだが、それから三日後、日本から送られてきた新聞を見て驚いた。
沈没していた船は「核物質」を積載していたのだ。この時は、「とうとう俺も放射線にやられるのか」と血も凍るような思いがした。考えてみれば、それまでにも長崎と広島で放射能の洗礼を受けているのである。今生きているのは不思議と言えるのかもしれない。その二週間後の九月九日、父が死んだ。私の代わりになってくれたのではないかと思っている。
これを書いたのは、一国の副総理ともあろう某氏が、「ワイマール憲法も、いつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。(国民)が騒がないで、納得して変わっている。喧騒の中で決めないでほしい」と、あたかもナチス政権を肯定したかのような発言があり、世界各国から非難の声があがっている。「ナチスの手口を学ぶ」なんていうことは、冗談にもせよ一国の責任ある地位にあるものの口にすべき言葉ではない。戦争の経験のない人間の無神経さにあきれたことだった。
この言葉を聞き、さして遠くない時期にあの世に招かれるであろう八六歳の老翁の私が、長崎や広島の原爆地獄を体験した一人として、戦争の悲惨さを知らない子供たちや孫たちに、その事実を伝えておくことは私の義務ではないかと考え、「原爆忌に思う」を書かせていただいた。
いかなる社会であれ、人が人を殺すという行為からは人間の幸せは生まれてこない。長崎に原爆が落とされた八月九日、多くの被爆者たちが病院に運ばれてきたが、翌朝半数の方たちは仏の手に抱かれた。(合掌)
戦場に散り、特別攻撃隊として散華した二〇〇万にも及ぶ若者たちは、全国民の平和な幸せを願って死んでいったことを忘れてはなるまい。
植松 乾
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植松 乾