増田要

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Summary

満州事変前の満州へ騎兵隊としてへ出征したというお父さんの躾は
とにかく厳しかったという増田さん。
     
学校に行く前にまず農作業の手伝いをし、
学校から帰ってきてからも宿題よりも農作業の手伝いが優先だったため
よく山で勉強をしていたという。
         
しかし子どもなので、たまには言いつけられていたことを忘れることもある。
そうすると、蔵の中に積み上げられている樽に一晩中縛り付けられていたのだとか。
電灯もなく、夜になると真っ暗になり、それはもうとにかく恐かったという。
  
「今思えば、その厳しい躾のおかげで子どもの頃から性根は入っていたと思いますけどね」
と増田さんは話す。
     
昭和19年17歳のとき、
第14期甲種飛行航空予科練習生として松山海軍航空隊入隊。
   
およそ1年後、昭和19年4月。
宇佐海軍航空隊へ特攻隊員として転属するも
米軍グラマン機の攻撃を受け特攻機が全滅。

その時の様子をこう語る。
「5日の日に、我々の一期先輩が特攻隊で出るいうんでね。飛行場へズラーと見送りについとった。エンジンも全部準備OKで、エンジンかけて、壮行会やいうて、出る者がお神酒をいただきよる最中に、グラマンがきてね、グラマンに全部特攻機やられて機銃掃射で、それから、待避壕に入れとった飛行機全部3キロ爆弾落とされて全滅、飛行機1機も残らへんようになった」
    
被害を受けたのは飛行機だけではなかった。
   
「そのときにね機銃掃射で飛行機やられて次にね、人間を飛行兵やなんかを全部撃つ。しかしワシらも逃げるとこないんじゃ飛行場じゃけん広いんじゃけん。見上げたら腹が立つヤンキーの野郎が白いマフラー首に巻いてからに、下を見い見い機関銃撃ちよるんが見えるんじゃ。「くそ石投げたろうか」と思うぐらいよく見える」
   
そして     
「おいグラマンが逃げたけ、原隊へ帰ろうや」言うたら、両脇のみな死んどる。ワシだけ生きとった」
  
増田さんは運良く、グラマン機の翼についている2門の機銃と機銃の間に位置していたため
直撃は免れたが、両脇にいた同僚は機銃掃射で亡くなっていたという。
                       
その後、「我が命を防波堤に日本を守る」という思いは変わらず
船で上陸してくるアメリカ軍を止めるために「海上特攻隊」に配属。
                              
爆弾を積んだ木製のボートで突撃する訓練を続けている間に終戦を迎えました。
増田要
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